期間 : 2022年10月4日(火) ~ 2023年12月25日(月)
本展は、森村組(※1)と日本陶器(※2 現:ノリタケ)が明治から昭和50年代までに製造、輸出した、陶磁器50点を展示するものです。
日本と欧米の暮らしぶりが大きく異なる時代に、それまで見たことも聞いたこともなく、何に使うかもわからない輸出用商品を日本で生産するのは、容易ではありませんでした。そのような時代においても市場のニーズに対応し、食卓用品から文具、喫煙具まで、さまざまな製品が作られました。
これらには、「ミルク缶ホルダー」「マスターシュカップ」「マッチ立て」のような、生活様式の変化や技術発達の結果、目にする機会が少なくなったものや、使用方法が想像しにくいものが数多くあります。面白い使い方や形をした、ちょっと不思議な陶磁器をお楽しみください。
※1 1876(明治9)年、外貨獲得を目的に創業した商社。
※2 1904(明治37)年、森村組が輸出する洋食器を製造するために創立。
期間 : 2019年9月3日(火) ~ 2020年9月6日(日)
明治が始まり間もない頃、日本は工業的に欧米列強から立ち遅れた後進国であった。産業の多くが家内制手工業の中、窯業界発展のため、時には私財を投じてその近代化を図ったのが、大倉孫兵衛と和親の父子である。
絵草紙屋を営んでいた父・孫兵衛は、森村組創業と同時に参画。彼の持つ流行を読み取る力と審美眼は、外貨獲得のための輸出陶磁器製造に活かされた。さらに1904(明治37)年に日本陶器が創立すると、息子・和親とともにディナーセット完成の立役者となる。その後も二人は高圧碍子や衛生陶器の開発を主導し、日本の窯業界を常にリードしてきた。1919(大正8)年にはより美しい磁器を作りたいと大倉陶園を私設。創立100周年を迎えた現在も多くの人々に愛されている。
本展は、日本の窯業の近代化に大きく貢献した父子の業績を辿る。
期間 : 2018年9月4日(火) ~ 2019年9月1日(日)
日本で初めて、神戸・六甲山にゴルフ場ができたのは1901年のこと。この頃はまだ外国人中心のスポーツだった。そんな中、日米を行き来する機会の多い森村組(※1)の幹部たちは、日本人としては早い時期にゴルフに触れていた。
森村組はゴルフと縁が深く、森村市左衛門(※2)が創立の支援を行った日本女子大では、1904年の体育大会の競技でゴルフが行われている。また、市左衛門の息子・開作は1913年に当時の各界指導者らが集まり設立した、国内初の日本人によるゴルフクラブ「東京ゴルフ倶楽部」の中心的人物であった。1922年に日本人用として整備が始まった、程ヶ谷カントリー倶楽部設立の際には、その資金集めに大きく貢献、日本のゴルフの黎明期を切り開いたひとりでもある。当時ゴルフは上流社会のスポーツとして流行し始めていた。森村組の輸出品にも、戦前からゴルフをモチーフにした陶磁器が存在している。
1957年の中村寅吉選手のカナダ・カップ(現・ワールドカップオブゴルフ)獲得を機に、日本でゴルフブームが起き各所に練習場ができたが、パブリック・コースはまだ少なく会員制で費用がかかるため、一般には贅沢な遊びと思われていた。1960年代後半になると国内のゴルフ場建設が進み、大衆のスポーツになっていく。やがて、レジャーへの関心の高まりや、ビジネスツールとしての利用により、競技人口は増加。このブームに合わせ、ノリタケでは陶磁器やクリスタル製のトロフィーをはじめ、フィギュアリン、飾皿など多くの関連商品を製造した。その後、競技人口がピークを迎えた90年代には、トーナメントに協賛し副賞商品として製品の提供を行うこともあった。
今回はゴルフフィギュアリンやゴルフ場を描いた記念の飾皿、トロフィー、灰皿など、約50点を展示する。
※1 森村組は1876年創業の商社。現在の森村商事㈱。当初は日本の雑貨を扱っていたが、後に陶磁器を主力商品とした。輸出用の洋食器製造のために、1904年「日本陶器(現:ノリタケ)」を設立する。
※2 森村組の創業者。外貨を得て国益を図ることを目的に森村組を創業した。
期間 : 2017年9月5日(火) ~ 2018年9月2日(日)
ノリタケはこれまで、古来より陶磁器の製造に用いられてきた伝統技法をはじめ、量産化を図るために従来の技法を改良したものや新たに編み出したものなど、様々な技法を駆使し、多くの製品を世に送り出してきました。
技法の改良や開発により、効率的な量産を可能とし、多彩なデザインを生み出すことができるようになりました。そこには、常に人々の暮らしを見つめ、確かな品質と時代の先端をいく感性豊かな製品を追求する、ものづくりの精神がありました。
本展では、ノリタケ食器の画付技法についてご紹介します。
ノリタケが培ってきた宝ともいえる技の数々をぜひご堪能下さい。
期間 : 2016年9月6日(火) ~ 2017年9月3日(日)
ニューヨークのモリムラブラザーズ(※)に図案部(デザイン室)が設置されたのは1895年のこと。現地で顧客の嗜好をつかみ流行を取り入れて商品に反映させる、今では当たり前のことですが、当時としてはとても画期的な試みでした。
当初は、花瓶や飾り皿といった装飾品(ファンシーウェア)のデザインがほとんどでしたが、1904年に日本陶器合名会社(現:ノリタケ)を創立し日本初のディナーセットが完成した後は、実用品である洋食器のデザインが中心となっていきます。
現在、食器のデザインワークは、シェープ(形状)・パターン(画柄)ともにその多くがデジタル化されていますが、以前は、図面・石膏によるモデル作成そして、水彩絵の具でのデザイン画まで、すべてデザイナーの手作業で行っていました。
1980年代から普及し始めたコンピューターは、ノリタケのデザイン室においても90年代初頭に本格的に導入され、その後10年あまりの間に急速にデジタル化が進みました。
現在は、専用ソフトを使いシェープの設計を行い、3Dプリンターでモデル作成ができるようになりました。また、パターンも、ラフスケッチから最終デザインまで、グラフィックソフトによるデジタルデータで制作され、そのまま転写紙として印刷が出来るようになり、大半の作業工程をコンピューターで行う事により、作業効率も大きく向上しています。
今回の展示では、食器のデザインがどのように描かれ商品化されていったのか、その作業の移り変わりとともに、ノリタケの歴史を物語る商品の一つひとつにこめられたデザイナーたちの想いを感じていただければ幸いです。
※後に日本陶器を設立する森村組の販売拠点
期間 : 2015年9月8日(火) ~ 2016年9月4日(日)
1904年、欧米の日常食器であるディナーセットの製造を目的として、名古屋・則武の地に日本陶器合名会社(現:ノリタケ)は創立しました。
しかし、最も重要なアイテムであるディナー皿の製造は困難を極め、白色硬質磁器による我が国初のディナーセットが完成し輸出されたのは、創立から10年後の1914(大正3)年のことでした。以来、ディナーセットは当社の主力製品となり100年の長きにわたり、「ノリタケチャイナ」の名で世界に愛されてきました。今回の企画展では、市場や顧客のニーズを追及するとともに、つねに素材や製造技術の開発に努め、デザインと品質にこだわって生み出されたノリタケ洋食器の数々を展示しています。日本の近代陶磁器産業の礎を築き、我が国の輸出貿易にも大きく貢献した「ノリタケチャイナ」の歴史を振り返りながら、ぜひご覧ください。
期間 : 2014年9月9日(火) ~ 2015年9月6日(日)
ノリタケは主に欧米向けの洋食器を製造していましたが、1929年の世界恐慌の影響で米国への輸出量が激減したため、国内向け和食器を手がけました。この時は本格的な和食器製造には至りませんでしたが、戦争の激化で食器の生産を中止した1943年までの間に多くの和食器がつくられました。また、終戦後はすぐに工場を再開し、戦災により極度に不足していた国内向けの和食器の製造を手がけました。1960年代になると日本人のライフスタイルの欧米化がすすみ、洋食器と和食器を組み合わせた「ホームセット」を販売し人気を博しました。1970年代に入ると、生活水準の向上化と国内市場の需要を反映し、新会社を設立して本格的な高級和食器の製造・販売を開始しました。
このようにノリタケでは、長年にわたる洋食器製造で培われた技術や技能を盛り込み、日本の伝統美に新しい時代感覚を取り入れた「乃りたけ和食器」を数多く世に送り出してきました。この企画展では1930年頃から1990年代にかけて製造した和食器約50点を展示しています。その歴史を振り返りながらぜひご覧ください。
期間 : 2013年9月10日(火) ~ 2014年9月7日(日)
ノリタケは、その時々の社会情勢や時代の要請を受けて、陶磁器や食器といった概念にとらわれることなく様々なものを作ってきました。物資不足の戦時下では、陶磁器が複雑な形状のものをつくることができるという特製を活かし、統制された金属に代わって家庭用品の素材として使用されました。西洋式の生活が急速に進んだ戦後は、製造技術の革新や新素材の開発が進んだこともあって、陶磁器の常識を覆す割れない食器など、世相を反映した製品を作りあげました。また、1960~80年代にかけては、金属やクリスタル、メラミン樹脂、ホーローなど陶磁器以外の素材分野も開拓し、総合食器メーカーとして業界をリードしてきました。こうしてノリタケが手がけた製品の中には、今では目にする機会がなくなったモノや、ちょっと風変わりなモノがあります。そんな珍しい製品約100点を展示いたしました。
これもノリタケ?ちらしダウンロード表面期間 : 2012年9月11日(火) ~ 2013年9月8日(日)
ボーンチャイナ(Bone China=骨灰磁器)は、18世紀に英国で誕生した磁器の一種です。当時、英国は陶磁器製造に必要となる良質な陶土に恵まれなかったため、代用として原材料に牛の骨灰を混ぜたところ、透光性がありクリーミーで柔らかな肌合いをもった独特の磁器が出来上がりました。日本では1932(昭和7)年に、ノリタケ(当時は日本陶器株式会社)が初めてボーンチャイナの製造に成功しました。
ノリタケがボーンチャイナを作ることになったきっかけは、1929(昭和4)年にアメリカで始まった大恐慌が世界に広がるなか、当時社長だった大倉和親が何か特色ある高級品を持たなければライバルに後れをとると考えたことにあります。そこで独創性を発揮できるボーンチャイナを導入するに至りました。
ボーンチャイナの製品化は高度な技術を要するため、当初はボンボン入れや花瓶、小さな置物といったものでしたが、1933(昭和8)年にはティーセットやディナーセットの製造も可能になりました。こうしたなか、1941(昭和16)年に太平洋戦争が勃発、その後深刻化し、食器の製造は中止に追い込まれました。しかしボーンチャイナだけは政府から技術保全の指定を受け製造が継続されました。そして戦後は、製造工場の一角に造形技能者(造形師)を集めたスタジオを組織し、様々な作品を制作できる環境を整えました。
ボーンチャイナの生地焼成は一般的な白色磁器(素焼→施釉→本焼)と異なり、先に高温で焼き締め(締焼)、釉薬を掛けて本焼成(釉焼)を行います(締焼→施釉→釉焼)。白色磁器では本焼成時に生地の収縮が起きますが、ボーンチャイナは締焼時に収縮が完了します。こうした素材の特徴をもつボーンチャイナは、置物など複雑な形状をした製品を作るのに適しており、芸術性の高いフィギュアリン(置物) や花瓶などを作り続けてきました。
取り上げられたモチーフは、動物、鳥、魚などのほか建造物までさまざまで、多種多様な作品を作ってきました。これらの作品は、造形師自身の手で粘土原型を制作するところから生まれます。造形師の多くは彫刻家として研鑽を積んでおり、彼らの想像力と表現力によって作品の芸術性が高められています。そしてそれを形にするため熟練した作業者の手で正確に組み立てられます。
それぞれの工程で必要な優れた製造技術は、ノリタケの森クラフトセンターで、今も変わることなく受け継がれています。
本展では、ボーンチャイナ(※)製の秀逸な作品80点余りを選び展示しました。
期間 : 2011年4月5日(火) ~ 2012年4月15日(日)
洋食器の「カップ&ソーサー(碗皿)」は、コーヒーや紅茶など、主に温かい飲み物を飲むための器として使われています。それぞれの飲み物をより美味しく味わうために、形や大きさなど、さまざまなバリエーションがあります。カフェやオフィス、ご家庭などあらゆるシーンで使われており、洋食器のなかでは最も身近なものです。
洋洋の磁器がヨーロッパに伝わった17世紀は、湯呑の形をしたカップに深めの受け皿を組み合わせたスタイルでした。現在のようなハンドル(把手)が付いたのは、1730年頃のマイセンといわれています。
ノノリタケでは、1914年、前身の日本陶器合名会社が日本初となる白色硬質磁器による洋食器ディナーセットを完成し、アメリカへの輸出を始めました。カップ&ソーサーはこのディナーセットにも組み込まれており、戦前、戦後を通し多くの製品が生まれました。もちろん戦前の日本国内においては、洋風の生活は一部の限られた人々のもので、作られる食器のほとんどは輸出用でした。
洋食器が日本の家庭に普及し始めるのは、戦後の復興期を経て生活水準が向上し始めた高度経済成長期の1955年頃からです。ダイニングキッチン付き住宅が建てられ、家庭料理に洋食メニューが登場すると、モダンで斬新なデザインで絵柄の揃った洋食器は憧れの製品となりました。ノリタケは頒布会方式の販売を取り入れ、国内に洋食器を普及させました。
そその後、インスタントコーヒーやティーバッグの登場によって、より手軽にコーヒーや紅茶を楽しめるようになると、湯呑に代わって洋食器のカップ&ソーサーを使う機会がさらに広がりました。形や画柄などのデザインも多様化し、さまざまに変化して浸透していきました。
欧米式の生活スタイルが一般的になる1970年代にはボーンチャイナ素材が流行するなど、高品質の製品が求められるようになりました。また、1980年代にはデザイナー・キャラクター(DCブランド)商品が市場に展開され、カップ&ソーサーのファッション化が進んだ時代もありました。
ノノリタケのカップ&ソーサーは工場で大量生産された工業製品であり、作家の作った芸術作品ではありませんが、それぞれの素材や形状、絵柄や色使いの中に、その時代背景や生活者のニーズを映して設計されています。
創立当初から現在までには数えきれないほど多くのカップ&ソーサーが作られてきました。今回の展示はそれらのなかから200点余りを集め展示しました。
期間 : 2010年3月30日(火) ~ 2011年4月3日(日)
本展では、ノリタケの伝統技法である「手描き(素描)絵付け」で制作された飾り皿を集めて展示しました。
ノリタケは、大正期以降、製造の中心を実用品としてのディナーウェア(洋食器)に移していきましたが、一方で初期に盛んだった花瓶や飾り皿(額皿)、置物といった鑑賞用品(ファンシーウェアと呼ばれる)の生産も継続しました。
1909(明治42)年、従業員の技芸の進歩を目指し、社内教育機関として洋画科、日本画科、彫刻科からなる「技芸科」が設置されます。この技芸科は近年まで継続され、長年にわたり多くの絵付け技能者(ペインター)の育成に貢献し、この中から洋画家、日本画家として活躍し、美術団体の展覧会に入賞入選するペインターも現れました。また、1930(昭和5)年には日陶洋画研究会が発足し、洋画部教授として、のちに日本芸術院会員となる画家、鬼頭鍋三郎が就任しています。こうした環境の中で育てられた熟練技能者が手描き(素描・すがき)で絵付けした飾り皿は特に工芸性が高く、当ミュージアムにも、大正末期から昭和50年代にかけて製作された作品のいくつかが残っています。薔薇や果物の絵柄や風景画が、一枚一枚精緻な筆使いで描かれ、見る者の心を奪います。
現在のノリタケ製品は、主に転写紙を使って絵付けをしていますが、手描き(素描)絵付けの技法も、高級品やアート品などの特別な商品の為に、今日のペインターにしっかりと継承されています。
期間 : 2009年3月31日(火) ~ 2010年3月28日(日)
日本で初めてディナーセットの製造に成功したノリタケ。輸出の拡大とともに、ディナーセット用に多くの画柄が制作され、ノリタケスタイルの画柄も確立されました。その後ノリタケは、「ボーンチャイナ」の開発にも取り組み、1932(昭和7)年、日本で初めて製造に成功しました。太平洋戦争中はボーンチャイナ製造を除き食器製造は中断しましたが、戦後、いち早く製造を再開しました。1960年代の初めには、温かみのある「酸化炎焼成磁器」(アイボリーチャイナ)や画付けの新技術、日常使いに適した「ストーン(炻器)」素材の開発が進みました。また、電子レンジや食器洗浄器の普及など、生活スタイルの変化に対応した耐熱強化磁器素材の開発などを次々と進め、一般家庭用から業務用に至るまでたくさんの洋食器を世に送り出してきました。
本企画展では、東京オリンピックの開催、高速道路や東海道新幹線の開通などを背景として日本経済が目覚しく発展する中で、われわれ日本人の生活が欧米化し、2LDKやダイニングキッチン、洋食メニューの普及や頒布会形式の食器販売を通じて、洋食器が一般家庭で身近になった昭和30年代後半(1961年以降)から創立100周年を迎えた現在に至るまで、ノリタケ洋食器の画柄デザインの移り変わりをご覧いただくべく開催しました。
また、本企画展は、名古屋ボストン美術館で開催された巡回展「ノリタケデザイン100年の歴史」に展示された「ノリタケディナー皿のデザインの変遷」に続く年代のものを展示しました。
期間 : 2007年4月3日(火) ~ 2009年3月29日(日)
1904(明治37)年に創立した日本陶器合名会社は、1913年日本初の「白色硬質磁器」によるディナー皿の製造に成功、その後ボーンチャイナの開発にも取り組み、1932(昭和7)年日本で初めて成功しました。
それまでの製品はほとんどが「還元炎焼成」でしたが、昭和40年代になると、温かみのある「酸化炎焼成磁器」を開発しました。また、カジュアルイメージの「炻器(せっき・ストーンウェア)」素材や、電子レンジや食器洗浄器の普及など、生活スタイルの変化に対応した「耐熱強化磁器」の開発など、新たな素材開発を次々と進め飛躍への基礎を固めてゆき、一般家庭用洋食器から、ホテル・レストラン向けの業務用食器や、航空機内食器の分野にも展開されるようになりました。「白色硬質磁器」の洋食器をルーツとする素材開発は、その時代における生活スタイルの変化に対応した耐熱強化素材の開発など次々と進め、一般家庭用洋食器から、ホテル・レストラン向けの業務用食器や、航空機内食器の分野にも展開されるようになりました。「白色硬質磁器」の洋食器をルーツとする素材開発は、その時代における生活スタイルや食生活の変化を先に読み、常にその時代背景を先取りし、それぞれの時代において市場の要求に応えてまいりました。
今後時代は変わろうとも「良品」の精神は変わることなく新たな100年に向かって進化を続けています。